河内国喜志村覚書帖

大阪の南部にある南河内の歴史と河内俄の紹介です

歴史27 / 八幡太郎は恐ろしや【補足】

 八幡太郎源義家は、清和天皇の末裔(清和源氏)であるとともに、北面の武士として天皇の警護にあたったことから、戦前の教科書には忠臣としてよくとりあげられています。
 しかし、弟義綱とのいさかいがあった後の十五年間は表舞台には出てきません。義家の勢力拡大を恐れた朝廷が、弟義綱や平正盛(まさもり=平清盛の父)を重用する方針をとったためです。またしても、出る杭は打たれたのです。
 実は、春やんを見舞いに行ったとき、義家の晩年を長々と話しました。そのまま書こうと思ったのですが、かなり複雑なので、以下にまとめました。

 晩年、義家は長男の義宗が早死にしていたため、次男の義親(よしちか)を嫡男にします。しかし、義親は西国で反乱を起こし、義家の没後、平正盛に討たれます。
 三男の義国は関東で叔父の源義光一族と争ったため二人とも廃嫡されました。
 義家死後、後継者となったのは次男の義忠ですが、源義光に暗殺されます。
 後を継いだのは次男義親の四男の為義(ひ孫)でしたが、問題を多く引き起こして朝廷から嫌われ、河内源氏の勢力はしだいに弱小化してしまいます。
 これを挽回したのが、為義の長男の義朝でした。しかし、平治の乱で壊滅してしまいます。
 ここからが、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の話になります。義朝の三男・源頼朝によって義家は伝説化され、再び表舞台に登場するのです。

 現在は、河内源氏菩提寺であった通法寺跡(図の右半分のみ)が残っています。境内に義家のお父さん頼義の墓があり、その南東の山の中に、義家と頼信の墓があります。
 小学校3年生の時の遠足コースで、小学校から通法寺まで歩かされました。
 「家から行った方が近いやん」とぼやいたのを覚えています。
※図は『河内名所図会』(国立国会図書館デジタル)