河内国喜志村覚書帖

大阪の南部にある南河内の歴史と河内俄の紹介です

歴史24 / 八幡太郎は恐ろしや②――血で血を争う兄弟喧嘩

※①のつづきです
 ズボンで両の手を拭きながら私たちのいる畦に春やんはもどって来ると、ポケットからワンカップを取り出し、シャカーンときれいな音をたてて蓋を開けると、ゴクリと一口、それからおもむろに話し出した。

 後三年の役が終わってから四年後の1091年のことや。
 八幡太郎義家の弟の義綱というのが、領地を広げようと、あろうことか摂関家の荘園にちょっかいを出しよったんや。
 その荘園というのは他でもない、この喜志のことや。「殿下の渡り領」として摂関家と深いつながりのあった「岐志荘」やから普通なら手は出せん。
 ところが、義綱の家来の清原実清というのが、荘園の別当(管理者)に「悪い地頭から守ってやる。ちょっと年貢をくれたら岐志荘の用心棒になってやる」と言って、話をまとめて来よった。
 これが義家の耳に入った。河内源氏とはいえ、天皇摂関家の家来や。それやのに摂関家の荘園に年貢をよこせとは何たる不届き者と、えらい怒りよった。実の弟とはいえ許すわけにはいかん。

 さっそく、義家は、家来の藤原実清というのを喜志の荘園に遣わした。苗字の通り、摂関家とは多少のつながりのあるやつや。この実清が、「年貢はいらん、この義家が何が何でも喜志の荘園は守ったるさかいに、弟の義綱とは縁を切って、八幡太郎グループにならへんか」とかけ合った。
 喜志荘にしたら、義家の方が筋が通ってるし、年貢を払わんでもええからオイシイ話や。さっそく八幡太郎グループに入ろうとするのやが、これが朝廷の耳に入った。朝廷は人気のある義家が権力を持つのを恐れてた。そこで、弟の義綱の方に肩入れするわけや。

 さすがの八幡太郎もこんどばかりは頭にきた。「天皇のためにやったってるのに弟の義綱の肩を持つとは」というんで、こりゃ義綱と一戦まじえるしかない、戦(いくさ)じゃわい。ホラ貝鳴らして兵を集める。弟の義綱も兄貴をやっつけるええ機会と兵を集めた。

 しかし、このとき、兄弟は都に住んでた。都に兵を集めて兄弟喧嘩しようというわけや。朝廷はあわてたがな。都で戦されたんでは困る。ましてや兄の義家は全国的人気があるさかいに、えげつない人数集めて、へたしたら都を奪われてしまうかもしれん。
 そこで、関白の藤原師実(ふじわらのもろざね)を兄弟喧嘩の仲裁に遣わした。「都に兵を入れること、義家に荘園を寄進することを禁止する」と命令を出しよったんや。
 さすがに義家も手のうちようがない。兄弟喧嘩は平穏に治まって喜志の荘園も安泰や。しかし、かわいそうなんは義家やがな。またまた、「出る杭は打たれる」で、出世はお預けや。逆に、弟の義綱はおとがめなしで、陸奥守・美濃守という地位をもろうて、兄貴の義家と肩を並べるほどになっていきよんねん!
 さあこの後、喜志の荘園はどないしたと思う? 表向きは兄弟のどちらにもつかんようにしてるんやが、実は裏では義家グループに入ってたんやがな! これが大正解あったんや。

  一通り話をすると、春やん、
 「ええか、出る杭は打たれるのことわざ通り、でしゃばったことせん方がええ。しかし、筋が通ってなかったら、ちょっかい出してもかまへん。出る杭の方が正しいこともあるんやさかいに
 わけのわからないことを言って、飲み干したワンカップをポケットに突っ込み、真っ赤な夕焼けの中をふらりふらりと歩いていった。
※③につづく