歴史16 / 聖武天皇漫遊記【補説】
春やんは酔っぱらっていたので、酔いに任せた作り話だと思っていたのですが、後で調べてみると、あながちウソでもないようです。
『続日本記』天平16年(729年)に、恭仁京に都を置こうと決めたあと、聖武天皇は難波に行幸しています。その時、「桜井頓宮」という言葉が出ています。頓宮(とんぐう)とは、天皇が旅で泊まる場所です。つまり、聖武天皇は「桜井」という所で泊まったということです。
枚岡市の桜井と富田林の桜井町の二説があるのですが、奈良から大阪に来る近道は竜田を通る道なので、枚岡市説が有力です。

しかし、聖武天皇の皇后の光明子(こうみょうし)と、左大臣の橘諸兄の母である橘三千代(たちばなのみちよ)の実家は羽曳野の古市なのです。また、聖武天皇に協力して大仏造立に尽力した僧行基(そうぎょうぎ)の父も羽曳野の古市の人なのです(育ったのは、母方の堺市の家原寺。通い婚だったのでしょう)。
また、桜井田部連犬という人も実際に存在し、橘三千代の元の名字の「犬養」と関連があります(天皇が猟に出るときの猟犬を飼育していたようです)。
以上からも、竹ノ内峠を越え、喜志村の桜井で頓宮し(宿泊)、皇后の母方の実家の古市に寄り、難波へおもむいたというのも考えられるコースなのです。
桜井の頓宮で安積親王は「脚病(かっけ)」によって恭仁京に帰ったとあります。そして次の日に死んでいます。政敵の藤原仲麻呂が暗殺したのだろうと言われています。春やんの話に出てくる盗賊は、仲麻呂の刺客だったのです。
そのため、難波に着いた聖武天皇は、難波京を都にすることを橘諸兄に急きょ宣言させています。
春やんの話、案外本当だったのかもしれません。
橘諸兄は後に美具久留御魂神社に縁起三巻を奉納しています。南河内と縁の深い人です。
「大和の薬問屋のご隠居」というのは、皇后の光明子が自ら薬草を植え、庶民に薬を分け与えた施薬院を建てたことからの連想なのでしょうが、これはちょっと眉唾物です。