河内国喜志村覚書帖

大阪の南部にある南河内の歴史と河内俄の紹介です

歴史32 / 忘れじの恋【補筆】

 後でわかったのですが、春やんの話の前半は『新古今和歌集』の中にある「江口の遊女」と呼ばれる話の中にある西行法師と遊女との和歌です。

 西行天王寺へ参拝するために江口を通りかかった時、雨が降ってきたので雨宿りをしようと、とある宿の戸を叩き、一夜の宿を頼みましたが、女あるじ(遊女妙)は貸そうとしませんでした。
 そのとき、西行法師が歌を詠んで、
 世の中をいとふまでこそかたからめ 仮の宿りを惜しむ君かな 
(この世を厭うて出家するのは難しいことかもしれないが、かりそめの宿を貸すことすら貴女は惜しむのですね)
 すると、女が返歌して、
 世をいとふ人とし聞けば仮りの宿に心とむなと思ふばかりぞ                    
(宿を惜しんだのではなく、出家をした方なので、このような現世の宿に心をお留めにならないようにとお断りしたのです)  

 「江口」は淀川下流の宿場(東淀川区江口)で、平安時代からの遊里です。「遊女」は「あそびめ」と読みます。いかがわしい遊びをするようになったのは江戸時代になってからで、それまでは本来の「遊び(歌舞音曲)」が中心でした。個人営業の家もあったといいます。
 「出家の身なのに、雨宿りとはいえ、こんな所へやってきてよいのですか」と遊女が西行バサリとやっつける話です。

 

 春やんの話の後半の和歌は『撰集抄』という説話の中にある作り話です。
 二つの話をくっけて、春やんは戦時下の悲恋物語にしてしまいました。話の中の人名は仮名です。新古今和歌集に「遊女妙」とあるので「お妙さん」にしました。
※ちなみに、殿様キングス「涙の操」の歌詞です。お妙さんは、こんな気持ちだったのだと思います。
 あなたのために 守り通した女の操
 今さら他人(ひと)に 捧げられないわ
 あなたの決して お邪魔はしないから
 おそばに置いて ほしいのよ
 お別れするより 死にたいわ 女だから
 (作詞 千家和也)
※図は『摂津名所図会』(大坂市立図書館デジタルアーカイブ)

歴史31 / 忘れじの恋

 大学三回生の冬、町内でご不幸があった。
 当時は、町内の集会所で葬式をするのが常だった。葬式全体をまとめるのは町役員、実際に行動するのは隣組と近辺から集合をかけられた「手伝い(てったい)」と呼ばれる人たちだった。そして、手伝いの中から数人が「帳場(ちょうば=会計)」に選ばれた。
 その時、我が家は帳場にあたった。集会所の近くの家の一室を借りて、賄(まかない)や香典の会計をする。字を書いたり、計算をしたりせねばならないので、体調のすぐれなかった親父に「おまえ行ってこい」と頼まれた。

 お通夜の日の昼すぎから帳場の仕事が始まる。雪が降りそうな寒い日だったが、帳場の部屋に入ると、石油ストーブががんがんにたかれていて暑いほどだった。外で手伝いをせずにすんだので、不謹慎だがラッキーと思った。それと、春やんも帳場にあたっていて、話し相手がいたのもよかった。
 「なんや、今日はおまえが来たんかいな」
 「何もわからんので、たのみます」
 「帳場みたいなもん、ぼーとしてたらええねん」
 ぼーとしていてよいのは、長老格の春やんだけだった。香典の計算以外にも、「しきび板〈かつては本物の樒(しきみ)の木を供えていたのだが、環境保護で廃止になり、お供えした人の名前を板に貼っていた〉」の名前書きがあって、けっこう忙しかった。
 夕食は「巻きずし」というのがきまりになっていた。集会所の二階で手伝いの人たちと食べた。お通夜が終わり、その日の会計を精算して、ようやく家に帰った。

 次の日は朝の十時から帳場の仕事が始まる。朝のうちは賄い(飲食など)の集計がほとんどだった。
 昼前になると手伝いのオバチャンが「先に昼食を食べとくなはれ」と呼びに来た。
 「かやくご飯(具はほとんど野菜)」に「冷ややっこ(木綿豆腐)」と「こうこ(たくあん)」がきまりだった。そのあとは一時からの葬式への弔問客が増えるので、またあわただしくなった。一段落ついたのは、葬式が終わり、全ての精算が終わってからだった。
 「ごくろはんでした」と隣組のオバチャンがお茶とお菓子を持ってくる。
 「ねえさん、化粧をすると、いっそうかわいいなあ」
 春やんのおだてにオバチャンが、「あほ言いないな」と赤くなって出て行き、しばらくして、
 「春やんは、こつちの方がよろしいやろ」と、一升瓶を持ってやってきた。
 「べっぴんな上に、よう気のつくねえさんや。おおきに、おおきに」
 春やんの言葉に、ネエサンが、春やんに湯呑を渡して酒をつぎ、赤い顔をしてひっこんでいった。
 「亡くなったお妙さんは九十(歳)や。まあ言うたらメデタゴト(祝い事)みたいなものや、よかったら、皆もよばれよ」
 その言葉に、おっちゃんたちも湯呑に酒をついだ。それを見ながら、春やんが話し出した。

 お妙さんというのは、若い時は、そら、べっぴんな人あった。戦争前に、河南町河内村西行法師終焉の寺がある広川から嫁に来たんや。
 嫁に来るまでは「河内小町」と呼ばれるほどかわいかったそうや。こら、お妙さんが自分で言うてたのやから、ほんまのことや。村の若い者から、しょっちゅうちょっかいかけられたそうや。

 そんなある日のことや。両親と兄さんがお伊勢参りに行って、一人で留守番をしていた。日の暮れ時に戸締りをしようと表(玄関先)へ出てみると俄雨か降っている。ふと横を見ると、軒先に学生服姿の一人の青年が雨宿りをしている。大川橋蔵市川雷蔵のようにすらりとした顔立ち。手拭いで顔をふきながら、
 「広川寺にお参りをし、山を下りようとすると、この俄雨に……」と言いかけて、前を見ると、河内小町といわれたほどのかわいい娘さんが立っていたので、もじもじし出した。
 「それはそれは、おかわいそうに……」
 本来ならば西国巡礼のように、家の中に招き入れ、お茶の一つも出す「お接待」をしなければならないのやが、お伊勢参りで家族はいない。娘一人の家に、若い男を引き込むわけにはいかない。

 お妙さんも、もじもじとしていると、学生はお妙さんに気があって、もっと話がしたかったんやろうなあ、学生が思い切ったように口をきった。
 「お大師様を信心し、本来ならば出家をして広川寺で修行をしたかったのですが、この戦時下。一週間後には戦地へゆかなければなりません。せめてお参りだけでもと来たのですが、日も暮れ、バスもなく、おまけにこの雨。一夜の宿をお借りできないでしょうか?」
 そうはいかないお妙さん、
 「本来ならばお泊めしなければならないのですが、今日だけは、そうはまいりません」
 娘一人の留守番の身というのを知らない学生が、
 「戦地へいくことをいといはしませんが、出家の夢を果たせなかったことは、残念に思っています。そんな私に、かりそめの宿を貸すのを惜しまれるのですか?」
 お妙さんもつらかったのやろう。目に涙をためて、
 「お国のために戦地へおもむく立派な覚悟がおありなら、こんな私のことなどお忘れください
 きっぱりと断られたので、少しは納得したのか、学生が「せめて手紙だけでも出してよろしいでしょうか?」と言う。
 お妙さんもまんざらでもなかったんやろうなあ。それに、どうせ調べればわかることやと住所を教えた。

 五日ほど後に、学生からの手紙が届いた。歌が一首書かれている。
  かりそめの世には思ひを残すなと聞きし言の葉忘られもせず
  (忘れてくださいと言った言葉が忘れられません)
と書いてあった。
 それを読んだお妙さんが返事を送った。
  忘れずとまず聞くからに袖ぬれて我身はいとふ夢の世の中
 (忘れられないと聞いて泣けてきますが、もはや夢の世のことです)
と、やんわりと断ったのやが、次には、戦地から手紙がきたので、お妙さんが、
 髪おろし衣の色はそめぬるになほつれなきは心なりけり
 (剃髪して尼となってもなお、つれなくせざるを得ない私です)
と、広川寺のお守りを添えて手紙を送った。その後、学生からの手紙はこなくなったということや。
 尼さんになったというのは、嘘やろうけど、忘れざるを得ない恋あったんやろうなあ。ナマンダブ、ナマンダブ。
 いつもなら、「涙の操」の一節でも歌うのだが、さすがにこの日はそうはいかず、話し終えた春やんは、ちびりちびりと湯呑の酒を飲んだ。

竹久夢二 画『女十題』『桜さく島見知らぬ世界』 国立国会図書館デジタルコレクション 

歴史30 / 願わくば……補筆

 春やんが、「そこに有る 綿を私に売ってくれませんか?(売るか?)」と尋ねたのに対して、女が歌った「石川のきしべで逢いし鮎にこそうるかといへるわたは有りけれ」の歌には「きし」「うるか」「わた」が掛詞(かけことば=駄洒落)になっています。

 次のような二通りの解釈が可能です。


石川の流れる喜志でお逢いした鮎=あなたにこそ、売ることの出来る綿があります。(あなたの意のままになりますよ)

石川の岸辺に群れる鮎には、これぞウルカ(鮎の腸を醗酵させた珍味)といえるきれいな腹わたがあります(私の腹は決まっています)


 どちらにせよ〈あなたとともに生きていきたい〉という意思をあらわしています。

 「願わくば花の下にて春しなむその如月の望月のころ」の和歌の「如月の望月のころ」は、旧暦の2月の中旬頃で、お釈迦さんの命日をさしています。新暦では3月の中旬から下旬。本来は悟りを開いたような歌ですが、春やんのおっちゃんは、色っぽい歌に解釈していました。人間らしい歌を詠んだ西行から考えると、春やんの解釈が正解だと思います。「花」は桜のことですが、染井吉野ではなく山桜です。
 大正十五年に発刊された『郷土史の研究』(南河内東部教育会 編)では、「願わくば……」の歌の初句は写真のように「同じくは……」となっています。

 自らの死を感じ「同じことならば・いっそのこと」「花のもとにて=喜志の女が看取るもとで」死んでいきたい。そんなふうにも解釈できます。

※「大深(おおけ)」は現在の喜志町です。喜志駅の東ロータリーを真っすぐ東へ200メートルほど行った所に、「大深」と書かれたバス停が残っています。
 このの話を聞いた時、登下校の際に大深の村の中を通って、桜の咲いている家を探した記憶があります。よく考えれば九百年も前のことで、「大深の西行桜」はもはや有ろうはずもありませんでした。昔は立派な西行桜があったのでしょう。当時の喜志村の名物は桜餅だったそうです。

歴史29 / 願わくば②……大深の西行桜

※①のつづきです

 この話の続きは、高校生になってから聞きました。前と同じく桜の花が咲いている頃でした。春やんは、桜を見ると西行法師のことを思い出すようです。
 前に記したように、喜志地区には桜の木が少なく、我が村にも桜の木はありませんでした。

 その日は、真っ赤に咲き誇る椿の木の下で、ほろ酔い気分で、春やんが話し出しました。私が高校生ということもあったのか、赤い椿の花の下であったためなのか……、ちょっと色っぽい話でした。

 西行法師という人は、二十三歳で出家するのやが、それまでは武士で、平清盛とは同い年で顔なじみ。時の関白の藤原頼長も日記に「ええ男や」と書いているぐらいやから、若いときからその才能は認められていたし名も知れていた。おまけに腕も立つし男前ときてるがな。
 それが世を捨てて出家した。どうやら女関係が盛んあったようで、鳥羽院中宮侍賢門院璋子との恋路ゆえであったというなあ……。
 しかし、身分が違うために叶わぬ恋。そこで、世をはかなんで出家した。このときは妻娘もあって、出家の時は、よりすがる愛児を蹴たおして行ったという。

 それから、吉野・大峰・奥羽と旅をするのやが、31歳の時に高野山へとやって来て、三十数年の間、修行を積む。
 実は、京の都で捨てた妻と娘が、捨てられたすぐ後に、高野山の麓の天野の里(現在の和歌山県かつらぎ町)にやってきて住んでいたんやなあ……。奇遇というよりは、打ち合わせしとったんやろう……。内緒で、何度となく逢瀬は重ねてた。人間の業(ごう)の深さや。まあ、それだけに、あんな人間的な歌が歌えたんやろう。

 1177年にこの妻が亡くなると、娘を残して、こんどは伊勢の二見が浦へと行く。その翌年に平清盛後白河法皇を幽閉して、源平の合戦の始まりや。
 富士川の戦で平家は敗走、翌年、清盛が亡くなる。それをみこして、木曾から源義仲が進軍し、京に入って、平家は都落ちをするのや……。一の谷、屋島と戦が続き、壇ノ浦でとうとう平家は滅亡。その大手柄が源義経や。 ところが、その人望の大きさが兄の源頼朝にとっては脅威となって、1186年、義経討伐の命令が下る。そのときに、頼朝が呼び出したのが西行法師や。

 名も知れ、才も有り、僧侶ゆえに東大寺勧進の砂金集めという大義名分もある。おまけに西行奥州藤原氏の親戚にもあたる。何の疑いも持たれようもない。そこで頼朝は西行に、義経を匿って保護するであろう藤原氏を偵察に行ってこいというわけや。前に話した女が河内源氏のならず者に襲われた時に、西行が出した「天下御免」の木札は頼朝からもらったものや。
 奥州での努めも無事に果たした西行法師、都に帰って来たが、気になるのは和歌山の天野の里に残した娘のことや……。そこで西行東高野街道を南へと急いだ。そのときに、喜志の交差点で例の事件に出くわしたんや。

 西行法師に助けてもらったあの女、歳のころは三十五前後のの女ざかり。夫を源平の戦で亡くして、今は一人者や……。対する西行も、七十歳になったとはいえ、浮名を流した男前。この道その道、あの道だけはやめられへん。
 目の前に女ざかりで、品があって、美しい女がいる。西行の手が女の膝にそっと伸びていく……。今にも触れんとしたそのとき、女がするりと膝を引いて言った。

 「あの世にて逢うこともがな、うつ蝉の、この世にては逢わず。三世過ぎて後、天に花咲く如月(きさらぎ)に、人間(じんかん)絶えし西の方、弥陀の浄土で我を待つべし……あなかしこあなかしこ

 えらい難しいこと言いよった。はてその意味はと思いを巡らし……、さすがは西行法師、この謎を解きよった。

 「あの世にて逢うこともがなうつ蝉の」というのは、「夫はあの世にいったがゆえに、今の私は逢うことも叶わぬ、蝉の抜け殻のようなはかない身です」という意味や。
 「この世にては逢わず」」は、夫との操を守るために、今はあなたとは合い添えません。「三世過ぎて後」は、夫が亡くなり三年過ぎてから。
 「天に花咲くきさらぎの」……花が咲き乱れる如月の春に、「人間絶えし西の方弥陀の浄土で我を待つべし」……人里はなれた山奥の阿弥陀仏をまつったお寺でお待ち下さい。
 あなかしこあなかしこ……というわけや。

 喜志の女は身持ちが固い。夫の喪に服した後の三年目に、もう一度お逢いしますので、西にある山奥の寺でお待ちください、というわけや。
 西行法師もお坊さんや、無闇なことは出来ない。深くうなづき、合掌して歌を詠んだ。

  願わくば花の下にて春死なむその如月の望月のころ

 願いが叶うのであれば、花のように美しいあなたとともに死んでみたいもの。あなたの言う如月(旧暦2月)の望月(満月)のころに、と歌ったあとに、
 「せめてそれまで、あなたの身代わりとして、あなたが今日、男どもに襲われた時に持っていた、そこに有る 綿を私に売ってくれませんか?(売るか?)」と女にたずねた。
 それに対して、女が歌を一首、

 石川のきしべで逢いし鮎にこそうるかといへるわたは有りけれ

 それを聞いて西行法師は女に別れを告げ、東高野街道を南へ、和歌山の天野の里へ行き、娘の安否を確認すると、今度は東高野街道を京の都へ。喜志の女には見向きもせずに嵯峨へ行き、今まで詠んだ歌の整理を済ませた。 

 そして、三年たった文治五年(1189)の如月に、約束どおり喜志に来て女と再会。人里はなれた葛城山の麓にある、弥陀のまつられた広川寺で二人仲良く暮らし、一年後の如月の満月の日に、「願わくば」の歌の通りに、桜の下でその生涯を閉じた。
 女が住んでいた屋敷に植えてあった桜は、喜志でも数少ない桜でもあったので、「大深の西行桜」というて、花が咲く頃を春ゴト(休日)にし、村人は葛(クズ)で作った桜餅を持って、その桜の木の下に集まって花見を楽しんだということや……あなかしこあなかしこ。

 そう言いながら、春やん、椿の花を一枝折り、
 ♪旅の衣は篠懸(すずかけ)の、旅の衣は篠懸の、露けき袖やしおるらん。♪時しも頃は如月(きさらぎ)の……と謡いながら帰って行きました。

※図は『[西行物語]』国立国会図書館デジタルコレクション

歴史28 / 願わくば……謎の木札

 寒い日が続いたせいで、新学期が始まっても、まだ桜の花が残り、盛んに花びらが散っていた。
 とはいえ、喜志地区には桜の木があまりない。「屋敷に桜の木を植えるな」という「掟」のようなものがあったからだ。その他にも「屋敷に実物(みもの=果樹)を植えるな。実が落ちる(身が落ちぶれるから」とか、「屋敷に藤の花を植えるな」というのがあった。
 私が成人してから、ある時、一才藤というフジの苗木を買って、上等の植木鉢に植えた。翌日の朝、植木鉢にフジの苗木はなかった。母が裏の溝に捨ててしまったのだ。

 「何するねん」と食ってかかった私に、
 「フジは、不治の病につながるから植えたらあかんのや!」と、母は言いはなった。
 私は「不治」ではなく不死と考えたらいいではないか」と言い返したものの、
 「親が不治の病になってもええんか!」と、がんとしてひかなかった。
 後年、寺の御縁さん〈和尚さん〉から「『門徒もの知らず』というのは、知識が無いということではなく、迷信を信じないということや」と聞いたことがある。
 果樹や藤の掟は、いくら考えても迷信である。ただし、桜は虫がつきやすいうえに、落ち葉で近所に迷惑をかけるという生活的な理由があるので、納得できなくもない。

 毎年、4月の11日と12日は「太子参り(たいっさん)」の日だ。「春ごと(春の祭事)」になっていて、「物日(もんび」で、仕事をしてはならない日だった。春の農事を始める前の一休みという意味があったのだろう。家々では、餅をついて神仏に供え、太子町にある叡福寺にお参りした。
 中学校に上がったばかりの時で、友達三人と太子参りをした。「いつまでも小学生みたいに露店を冷やかすのもそろそろかっこ悪いなあ」と、少しは大人になっていた。
 雲ゆきがあやしくなったので、早々に帰り、河南橋のそばの友達の家の前で、新しい学校の話をしていた。しばらくたった頃に、自転車の音をさせて、小雨の中を春やんがやってきた。私たちを見つけて、
 「おお、太子参り行ったんか? おまえらも早々に帰って来たんかいな。わしといっしょや。どや、これ食べるか?」
 自転車の前かごにある新聞紙の包みから、ヒノキの葉っぱが見えていた。開ける前から川ガニモクズガニを蒸したもの)だとわかった。喜志地区の縁日に、川ガニは付き物で、正月は天神さん(道明寺天満宮)の山門の階段の下、太子参りも山門の下、秋祭りは二の鳥居の入口と、決まった場所で売っていた。生臭いものなので、境内は遠慮していたのだろう。
 私たちは一匹ずつもらった。春やんは残ったカニの重さを一匹ずつ確認し、重そうなのを選んで食べだした。「ようさん買うてやるから、じゃかまし言うな!」と啖呵をきって、一匹ずつ重さをみて、選んできたのだろう。 蓋(甲羅)をあけると、春先とはいえ、どのカニにもけっこう赤い身が詰まっていた。
 カニを食べている間は、口も手も忙しいので、静かなものなのだが、春やんは酒が入っているのか、例によって例の如くしゃべり出した。
 「ええか、今からお前らにクイズだしたるさかいに、聞いときや」
 そう言ってポケットからワンカップを取り出し、蓋を開けて、ちびりちびりと飲みながら話し出した。

 文治二年(1187年)、いい国つくろう鎌倉幕府の五年前。春の訪れがようやく感じられる如月(きさらぎ)の半ばごろ、新暦で言えば三月の下旬のことや。
 喜志小学校の西側に細い道がある。あの道は東高野街道というて、京都から高野山へと通じる道や。当時の国道や。その東高野街道を、墨染めの衣に身をまとった、すでに齢は七十はすぎたとみえる一人の坊さんが、南へと急いでいた。
 小学校から西へちょっと曲がった、大深(おおけ)の交差点(現在は喜志交差点)、駐在所のあるあたりにさしかかったときや……。

 

 向こうの方から一人のお女中。年のころなら三十……三十五……、いや、四十……、まあ、歳はどうでもええ! 

 黄ちりめんに鹿の子模様の着物を着た、色白でなかなかのべっぴんさんが、大きなイカケ(竹かご)に、白い綿の実をいっぱい入れたのを手に持ってやってきた。
 坊さんの姿を見て立ち止まり、うやうやしく頭を下げる。昔の女性は皆、奥ゆかしかった。
 坊さんも合掌をし、軽く振り向き行き違う。そのときに、ちらりと見たお女中のなんと麗しきこと。


 そう思ったときや。バラバラと飛び出してきたふんどし姿の男が数人。刀を抜いてその女を取り囲んだ。
 「おい、手に持っている綿をよこさんかい!」
 「何をご無体な、この綿は……」 
 「黙ってよこさんと、この綿だけではなしに、おのれの腹わたもいてまうぞ!」
 「河内源氏の方とお見受けいたします。どうぞお許しくださいませ」

 

 春やん、ここでワンカップをごくりと飲んで、フーッと大きく息をし、勧進帳の弁慶よろしく、首で大きく見得をきり、


 それ、つらつらおもんみれば、鎌倉幕府を開きたる、頼朝ならびに哀れ弟九朗判官義経も、元を正せば喜志村の東の方なる通法寺、頼信、頼義、義家と、三代続いて名を轟かす、河内源氏の末孫なり


 春やん、いきんで言うもんやさかいに、ワンカップの酒があたりに飛び散って我々の目に入り、みんな目をしくしくさせながら聞いていた。

 女が今にも男どもに押し倒されようとするその時、さきほどの坊さんが両手を大きく開いて中に割って入った。
 「しばし待たれえ!」
 「なんじゃい! 旅のくそ坊主やないかい! じゃまをしたらおのれもいてこますぞ!」
 この坊さん、元は侍かとみえて、腰のすわった物言い、しぐさ。本来ならば右に左に投げ捨てたいところやが、七十歳ちかい老体や。懐(ふところ)から通行手形のような木札を取り出した
 「なんじゃい、そんな木札一枚でこの場を去れと言うのか?」
 男が一人、木札をへし割ろうと近づき、木札を見てびっくりし、その場にハハーッとひれ伏した。何事かと他の男どもも寄って来て、木札を見るなり、同じくハハーッ!
 「なにとぞこの場はお許しを……えらいすんまへんでした!」
 そう言うなり、男どもは、ほうほうのていで逃げて行きよった。

 くだんの女が、「どうも危ない所をお助けくださいましてありがとうございました。名のある御坊とお見受けいたします。お礼のしるしにお茶でもいっぷく……」
 女に連れられやって来たのがこざっぱりとした草の庵(いおり)。
 百姓女と思いきや、何か事情のある女よと思いつつ、言われるままに坊さんが家の中に入る。床の間の横に小さな仏壇、位牌が一つ置いてある。この坊さん、その仏壇の前へ正座して、両手合わせて無言の読経……。
 「先年の戦(いくさ)で亡くなりました、わが夫でございます……」
 着物の袂(たもと)で涙をふく。その姿の奥ゆかしさは、侍の奥方ゆえかと坊さんはようやく納得した。
 「さようでございましたか……それはそれは……」

 女の方へ向きなおそうとした時、ふと外に目をやると、桜の花がちらほらと咲き出している。それを見て坊さんが、
 「心なき身にもあわれは知られけり……」とつぶやいた。
 これを聞いて、女は、さてはと思い、桜の花によって来た一匹の蝶々を指差して、
 「蝶なれば二つか四つも舞うべきに、一つ舞うとはこれは半なり
 これに対して坊さんが、
 「一羽にて千鳥と言える名もあれば、一つ舞うとも蝶は蝶なり」と返した。

 歌舞伎の女形のようにしゃべる春やん。みんなくすくす笑った。それで頭にきたのか、春やんがきっと目を見開いて、

 おいおい、おまえらこの歌の意味わかってんのかいな?
 坊さんが「私のような無理解な人間でも、なんとなくもののあわれを感じます」と和歌の上の句を詠んできたのに対して、女が、
 「丁なら二匹か四匹の偶数のはずやのに、一匹しかいてないのは半ですね」と下の句を返した。
 丁半ばくちというのがあって、さいころの目が偶数なら「丁」、奇数なら「半」というのや

 女がみごとな下の句を返してきたので、坊さんも負けてられん。
 「一羽でも千鳥(ちどり)という名もあるから、一匹でも丁です」と歌を返したのやなあ……。
 さあ、ここからや! お坊さんの、あまりの返歌の巧みさにこの女、はっと両手でひざを打ち、
 「もしやあなた様は……鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ……
 「いえいえ、御覧の通りの心なき身の旅の僧でございます……」
 さあここでや、おまえらこの坊さんが誰かわかるか?
 春やんがやっとクイズを出してきた。えらい長いクイズやなあと、みんなぽかんとしている。春やんはポケットから二本目を取り出して、シュカーンと蓋を開け、グビリと飲んで続けた。

 この喜志に来る前まで、坊さんは、奥州におったんや。ヨーロッパと違うぞ。奥州、つまり、東北、平泉に行ってたんや。平泉といえば藤原三代、金色堂を造った藤原氏に、東大寺の大仏を造りなおすための勧進に行ってたんや。
 しかし、それは表向き、実は鎌倉幕府初代将軍源頼朝のたのみで、弟の義経が頼って行くであろう藤原氏の偵察、スパイにに行ってたんやがな
 さっき、坊さんが取り出した木札は、奥州に行く前、鎌倉に寄った時に、頼朝から頂戴したものや
 この木札には、「天下御免 頼朝」と書かれてあった。元を正せば頼朝は河内源氏の末裔やが、この時には日本全国にいる源氏の棟梁や。その頼朝の名が書いてあるんやさかいに、そこらあたりの源氏のチンピラはひとたまりもない!

 酔いがまわってきたのか、春やんの目が、いつものようにしくしくし出した。

 さあ、さっきのクイズの答えやが……、中学生なったばかりではわからんかもしれんな。知らんかったら教えたろ、西行法師というて、日本で一番歌のうまい人や。歌いうても森進一とちがうぞ。和歌のことや、わかるか? さっきの話の中のお女中は、西行法師であることに気づいていた。
 女が「もしやあなた様は……鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ……」と言ったのは、坊さんが最初に言った「心なき身にもあわれは知られけり」という和歌の下の句や。
 心なき身にもあわれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ (百人一首)
 いつか勉強するはずやから覚えておけ。西行法師は、ここから見える葛城山の麓、河南町にある広川寺で死なはった人や。
 願わくば花の下(もと)にて春死なんその如月の望月のころ ……ちゅうやっちゃ!


 と、空になったワンカップの瓶ををカニの爪でチーンとたたくと、春やんのおっちゃんもチーンして、こくりこくりと寝てしまった。

※絵は『[西行物語]』国立国会図書館デジタルコレクション 

歴史27 / 八幡太郎は恐ろしや【補足】

 八幡太郎源義家は、清和天皇の末裔(清和源氏)であるとともに、北面の武士として天皇の警護にあたったことから、戦前の教科書には忠臣としてよくとりあげられています。
 しかし、弟義綱とのいさかいがあった後の十五年間は表舞台には出てきません。義家の勢力拡大を恐れた朝廷が、弟義綱や平正盛(まさもり=平清盛の父)を重用する方針をとったためです。またしても、出る杭は打たれたのです。
 実は、春やんを見舞いに行ったとき、義家の晩年を長々と話しました。そのまま書こうと思ったのですが、かなり複雑なので、以下にまとめました。

 晩年、義家は長男の義宗が早死にしていたため、次男の義親(よしちか)を嫡男にします。しかし、義親は西国で反乱を起こし、義家の没後、平正盛に討たれます。
 三男の義国は関東で叔父の源義光一族と争ったため二人とも廃嫡されました。
 義家死後、後継者となったのは次男の義忠ですが、源義光に暗殺されます。
 後を継いだのは次男義親の四男の為義(ひ孫)でしたが、問題を多く引き起こして朝廷から嫌われ、河内源氏の勢力はしだいに弱小化してしまいます。
 これを挽回したのが、為義の長男の義朝でした。しかし、平治の乱で壊滅してしまいます。
 ここからが、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の話になります。義朝の三男・源頼朝によって義家は伝説化され、再び表舞台に登場するのです。

 現在は、河内源氏菩提寺であった通法寺跡(図の右半分のみ)が残っています。境内に義家のお父さん頼義の墓があり、その南東の山の中に、義家と頼信の墓があります。
 小学校3年生の時の遠足コースで、小学校から通法寺まで歩かされました。
 「家から行った方が近いやん」とぼやいたのを覚えています。
※図は『河内名所図会』(国立国会図書館デジタル)

歴史26 /八幡太郎は恐ろしや④-――出る杭は打たれる

※③のつづきです 
 朝食を済ませ、8時頃に家を出ようとすると、バリバリとテーラ〈耕うん期の後ろに荷台をつけた車〉のエンジンの音を響かせて両親が帰って来た。向かいの家の杉の木の上で、カラスが一声鳴いた。
 あわただしく着替えをする両親の話し声の中に「春やんが死によった」という声が聞こえた。
「出る杭は打たれるけども、出る杭が正しいこともある」と、昨日、春やんの言った言葉が頭をよぎった。

 両親は慌ただしく着替えを済ますと、テーラに乗って市内にある病院へ出かけた。
 その日の稲刈りは必然的に中止なのだと思った。遠い親戚とはいえ、町内にいる親戚の不幸に仕事をしているのは村のもの笑いになる時代だった。私は、庭の真ん中にあった便所の西側に積み重ねたシバ(風呂の焚き付けに使う木)の上に座って、春やんが、今、眠っているであろう南の空をぼんやりと眺めていた。大きな椿の木の下で、日陰になってひんやりと寒かった。
 春やんが死んだ、という実感はなかった。それより、人の死は偶然ではなく、何か重い必然のようなものがあるのだと思った。椿の木の下のアオキの木が早くも実をつけていた。血のように、やけに赤かった。

 どのくらいぼおっとしていたのだろうか。バリバリッとテーラの音がし、両親が帰って来た。庭の出入りばなにテーラを止めると、静かに家の中へ入っていった。私も、その後に続いて家の中へ入った。季節はずれのオハグロトンボが、真っ黒な羽をひらひらと動かしながら、前栽(せんざい)の榊の木の下で飛んでいた。
 親父が水道の水をコップに入れながら、
 「ナイフで刺されたと、聞いたから、こら死によったと思うたんやけど、運の強いオッサンやわい!」と、コップの水をグイグイと飲みながら叫ぶように言った。
 春やんは生きていた。私は、「死んだ」と聞いた時よりも、なぜか足がガクガクして、その場にへたるように座りこんだ。ポロリと一つだけ、ほっぺたに涙が流れたように思う。

 後で聞いた話によると、当時、春やんは町内会の代表として喜志地区のある役員をしていた。「わしは、そんな人(ニン)ではないわい」と、最初は役を辞退したのだが、他町とちょっとしたもめ事があって、ここは春やんでなければまとまらないということになって、不承不承に引き受けたそうだ。しかし、春やんはがんとして村の言い分を通し、かえってもめ事は大きくなっていた。
 にっちもさっちもゆかなくなって、相手方は、そり筋の親分を中に入れて話をまとめようとしたらしい。普通ならば、長いものには巻かれろで落着するのだが、春やんは、筋を通した。間違いは間違いとして、がんとしても受け付けず、逆にくってかかったのだ。

 昨夜、相手側との話し合いがあったのだが、まとまらず、「まあまあ次回は」ということで、すこしばかりの酒が出て、お開きとなった。その帰り道、月明かりを頼りに、春やんが、ふらふらと歩いていると、後ろから、
 「おっさん、大丈夫か?」という声がした。春やんが振り向くと、
 「大きな顔さらすなよ!」という罵声がし、一人の男がナイフを持って春やんに向かって来た。
 「なんじゃい!」と春やんが言うなり、男のもったナイフが春やんの腹を突き刺した。にぶい音がして、春やんはその場に倒れた。その音で男は確信したのか、あとも振り向かずに逃げ去った。 
 逃げ去る男に向かって、春やんは一声、
  「こら、忘れもんや。ナイフ、持って帰らんかい!」と叫び、腹に刺さったナイフを自分で抜いて、男に向かって投げつけた。その声を聞いた近隣の人が警察に通報し、春やんは病院に運ばれた。
 素面(しらふ)ならば死んでいたかもしれない。酒に酔ってふらふらとしていたために、ナイフは急所をはずれ、おまけに、当時流行のラメの腹巻きに入れていたプラスチックの煙草入れを突き抜いたおかげで、脇腹にわずか1センチほど刺さっただけだったという。

 二、三日後、母に連れられて病院へ行った。春やんが私を連れて来いといったらしい。六人部屋の病室に入ると、春やんが開口一番、
 「遅いやないけぇ! 明日、退院やがな!」と、患者とは思えない大きな声で言った。
 他の患者さんは、どういう話の成り行きになるのかと、クスクスと笑いながら私たちを眺めている。
 「よう来てくれた」と涙を流して私の手を握ってくれるのかと予想していたのに、。死にかけたんとちゃうんかいな、このおっさんと、私は心の中で叫んだ。
 「人間、己の意地を通したらこないになるということやなあ
 おい、おい、「出る杭は打たれるけど、言うべきことは言わんとあかん」と言うたんは誰やねん。もう一度、心の中で叫んだ。
 「あの八幡太郎義家も、出る杭は打たれるを、ようさん経験した。八幡太郎義家の気持ちが、ようわかる!
 お母んの前でそんなん言うてもわからんやろと、ツッコミをいれたかった。八幡太郎は恐ろしや、と思った。 
 一通り話をすると、春やんは、息子の奥さんが買ってきたガラスの水差しからごくりと水を飲んだ。春やんが酒ではなく、水を飲んで話をしをしたのは、これが最初で最後だった。